川上 貞奴 Kawakami Sadayakko
1871年9月2日(旧暦7月18日)に東京日本橋の両替商の家に生まれる。生家の没落により7歳で日本橋芳(よし)町の芸者置屋・浜田屋の亀吉の養女となる。日舞などの芸に優れ才色兼備の貞奴は、伊藤博文らに贔屓にされた。「奴」とは、新橋の「ぽんた」のように花街を代表する名妓だけが継げる伝統ある名前である。
貞奴は、自由民権運動の活動家で書生芝居で人気を博していた川上音二郎と結婚し、芸妓から引退。音二郎の影響で演劇へ転向した当時は芸能の地位は低く、さらに男性が女性役を演じることが当たり前だった。しかし持ち前の芸の力と人柄とで、日本初の女優としてワールドワイドに活躍。「マダム貞奴」と呼ばれ、ロダン、ピカソ、ジイド、プッチーニなど芸術家らをも魅了した。
音二郎が亡くなると7年にわたる追悼興行を行ったのち芸能界を引退。第3のステージとして、旧知の間柄であった福澤桃介の木曽川の水力発電事業を支えた。人生の前半を川上音二郎、後半を福澤桃介という2人の男性のパートナーとして、そばに寄り添いながら社会を変えていった。
幼い頃より不動明王への信仰に篤く、その信仰のおかげで数多くの苦難を乗り越えられてきたとの思いから、岐阜県各務原市に自ら貞照寺を建立。1946年に世を去ると、貞照寺に埋葬された。
川上音二郎
Kawakami Otojiro
貞奴の夫。川上座を立ち上げ
新派劇の創始者となった。
「オッペケペー節」や「板垣君遭難実記」
などで一世を風靡。
事業が上手くいかない時、
二人は小舟で夜逃げしたことも。
その後、アメリカやヨーロッパでの
興行は、苦難の末、成功を収めた。
貞奴は彼とともに世界を見て、
それまでに日本になかった
価値観を育んだ
福澤桃介
Fukuzawa Momosuke
貞奴の事業パートナーで
福澤諭吉の娘婿。
2人は10代で知り合ったが
その後は別々の道へ。
音二郎の早逝後、
運命に導かれるように、
貞奴が最も深く関わった人物。
まだ電力が普及していない頃
貞奴に支えられ
木曽川の水力開発に情熱を注ぎ
人々の暮らしを豊かにした
各務原と貞奴
貞奴は天から見守る地として各務原を選んだ。そこは音二郎の姓の「川上」と、桃介との思い出の「木曽川」から、清らかな水の流れる川のそば。彼女はこの地を訪れるたび、子どものように地域を大切にしていた。その想いは、市民へと受け継がれている。